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10年以上追い続けたサッカー選手という夢を、俺は自らの意志で諦めたのだ。忘れもしない2010年の10月13日。東京都大会の決勝で、我々帝京高校は破れ、引退が決まった。
その時湧き上がってきた感情を、俺はいまだに鮮明に覚えている。
破れた悔しさはもちろん、「やっと終わったな、やっとサッカーを忘れられる」と安堵と開放感に似た感情も湧き上がってきたのだ。
不思議と、まったく未練を感じなかった。あの清々しい感情は、あとにも先にもこの日だけだ。
今まで生き甲斐だったことに対し、そのような感情が湧き上がってきたことに、内心とてもショックを受けたことを覚えている。でも、どう自分に問いただしても、心からそう思うのだ。
今考えると、全力で取り組み、全力で向き合い、自分が考えうる限り最大限の努力をした結果 だからこその感情だったのだろう。
サッカーに関して言うと、実は俺はそんなに才能のある
プレイヤーではなかったんだ。
あれは中学生の頃だったんだろうか。今は日本代表になった同世代の選手のプレーを、間近で見たことがある。その時に、レベルの違いを痛感させられた。だから、人が見ていないところで、俺は毎日練習をした。
みんなが楽しくデートしているときに、みんなが友人と遊んでいるときに、毎日毎日、俺は夢を叶えるために練習をした。
思えば、学生が普通に経験するであろう体験を、俺はほとんどしていない。
・文化祭やなんかの学校行事。
・公園で何をするでもなく語り合うこと。
・仲間同士でちょっとした悪さをした、なんてこともない。
・ひたすら、ボールだけを追いかけた。
・全ての時間を、夢に費やしたんだ。
そのぐらい真摯に、真正面から夢と向き合ったからこそ、無念さと悔しさ、そして安堵と解放感という感情が湧き上がってきたのだろう。
これでプロに慣れないなら、なにがあっても絶対に無理だと思った。もし、適当な気持ちで夢に向き合っていたら?なんとなーく努力していたとしたら?
きっと、「俺だって、本気出したらそのうち……」なんて
カッコ悪いことを思いながら、今でも中途半端に、夢とも言えない夢を追いかけ続けていたかもしれない。
夢は叶わなかった。けれども、あの時過ごした十数年は、俺に夢や目標に全力で向き合うことの大切さを教えてくれた。(抜粋:俺か、俺以外か。ローランドと言う生き方 KADOKAWA)